7年ぶりに自宅軟禁を解除されたアウン・サン・スー・チーさんが、
解放後の演説の中で、軟禁される以前にはなかったもの、として「カメラ付き携帯」を挙げていた。
そうか、これ、最近はあるのが当たり前だけど、
6,7年前にはなかったものなのね。
「冬ソナ」が日本で放送されたのは2005年だから、ちょうどその頃と重なる。
つまり日本でいう韓流の流れは、
携帯電話にカメラやテレビが付随する高機能化と、
薄型軽量化の進化と同時進行だったわけだ。
いまさらながらだが、改めて考えると、
これにけっこう踊らされてる感じもする。私たち。
こんなもんに情報が飛び込んでこなければ、
もうちょっと心穏やかな毎日が暮らせるんじゃないだろうか。と思う。
今日はどこにいて何をしているとか、
何時の飛行機に乗るとか、
どんな服を着ていたとか、
元気そうだとか疲れているみたいとか。
知りたいことだけじゃなくて、
どうでもいいことまで、いろんな話は入り乱れ、尾ひれがついて、
あるいは変形して情報に介在する人の思惑まで加わって、
あちこちから飛び込んでくる。
よけずに受け止めていたらどうなるか。
知ったことで安心を得られるということはない。
反対に妙な高揚感に縛られる。
ヨン様が以前、あるインタビューで、
「家にいるしか、方法がない」
といっていたことを思い出すが、
これってつまるところ、ファンという勢力が作り出した「軟禁状態」じゃないのか。
隠れて出てこないから、
ちょっとでも出てきたところを見たいというのと、
ちょっと出たら、大変なことになるからなるべく出ないというのと、
かなりのイタチごっこであるとは思う。
誰も振り向いてもくれなければ、成り立たない職業だとも思うし。
ちょっとでも公の場所に出てくれば、
あっちこっちに記事やら画像やら動画やらが上がって追いかけるだけで時間がなくなるし、
日本へ来たなら来たで、チケット代やら交通費やらいろいろ出費がかさむ。
何のうわさも1枚の写真もなければないで、
どうしてるんだろう、元気なんだろうか、なんで出てこないんだろうなんて、不安がつのる。
彼らの自由をさえぎるカメラがいつでもどこでも待ち構えていて、
本人にとっては不本意だろうと思う表情もしっかりつかまえて、
選別もされずに、あっという間にネットにのって広まってしまうことによって、
こっちの不安が解消されてるっていう、なんだか変な循環になっている。
やまほどの画像を見ながら、
「疲れてるみたい」とか「少し休めるといいのにね」なんて思いながら、
決してその空白を許さないのは、実はこっちのほうなのだ
愛とは何か。愛というのはお互いに心が幸せになるようにという願いから行動するものなのです。
(スー・チー女史の演説より)
深いわ。
(ここで言ってる愛はもっと崇高だけど)
愛のために、不自由になったり、何かに追い立てられて不安がつのったりしちゃいけないのよ。
好きな相手に自由をあげることって、誰でもそうしてあげたいと思う理想で、現実的には難しいこと。
わかってるんだけど。頭では。