スーちゃんの訃報を聞いた時、
なんだか体から力が抜けたんだけど、
そういえばうちの母も「裕次郎」とか「ひばり」がなくなったとき、
なんかがっくり気が抜けたようなことを言っていたのを思い出す。
「時代」の記憶が抜け落ちるような喪失感というか。
すごくファンだったというわけじゃないけど、
なんだかあっちが駆け抜けていた時代が遠く遠くなるような気がします。
最近、「情報共有させていただきます」といってメールを送ってくる、
元広告代理店という女がいるんだけど、
そのたびに「お知らせします」か「ご連絡します」でいいだろう、
変な日本語、と思ってしまうのだが、
「共有」と言う言葉は、あっちとこっちがお互いに了解してなくても
成り立つことがあるんだなあと思った。
「時代の共有」。
それで、ちょっとどんなに応援していても、
さすがにもうSS501とは時代を共有できてないなあ、と改めて認識した。
そりゃ、無理だ。
時間の流れ方が違いすぎる、と思う。
ぴあMOOKの「K-POP前線異常アリ!」に、
韓国のいろんな芸能プロダクションの代表のインタビューが出ているのだけど、
「K-POPに熱狂する日本ファンをどう思うか」と言う質問に、
「(特に中年層に対して)余裕のある生活と文化が土台となった彼女らの環境をうらやましく思う」
と答えたものがあった。
「〔日本ファンが楽しんでいるのは〕自分のための自由と選択」であり、
「誰かのための盲目的な騒ぎではない」とある。
そーねー。確かに。
若い時に同年代のアイドルを追っていたら、
もっと切実な気持ちであったかもしれない。
若いアイドルたちが、その矢のようにすぎる時間を駆け抜けているのと同じように、
こっちも人生を駆け抜けていることが「時代の共有」であって、
キャンディーズとは確かにそうであったと思うけど、
SS501とはきっとそうじゃないのね。