あるとき「ジュンスって美空ひばりみたい」というコメントを聞いて、
それが考えれば考えるほどぴったりで、
それが意味する内容について、感心が関心にかわってきている。
某雑誌の編集部の方のコメントだそうだ。
聞いた時には、ジュンスと美空ひばりの年代的なギャップからすぐにはピンとこなかったのだが、
だんだんいろいろなことが符合してきた。
美空ひばりは見た目がすごく美形というわけでもなく(私が子どものころにはすでにおばさんだった)、
声だって澄んだソプラノというわけじゃなくて(一度聴いたら忘れられない)、
衣装はいつもケバケバしてて、いかにも歌謡界の大御所風だった。
でも晩年に、それまでのような演歌ではなく、
「愛燦燦」とか「川の流れのように」を出したときには、
そういったものを超えて、歌がうまいってこういうことなんだということを実感した。
どううまいとかもうまく言えないし、単に曲が良いだけでは片づけられないなにか。
ジュンスにもそれと同じものを感じる。
若くて愛嬌もあって踊りもうまいということを差し引いても、
その歌声だけを聞いても十分に引き込まれるものを持っている。
音楽の専門家たちではなく、
何万人の素人に同じように「なんだかわからないけど、うまい」と感じさせるもの。
やっぱり99%の努力ではあと1%足りない
「持って生まれた天賦の才」というものなのかも。
歌にどうやって感情を込めるのかと聞かれて、
「声にはまったく感情を込めないで歌う」と答えていたのが印象的だった。
感情は聴く方が感じとるものであって、
歌うときにはできるだけ「無」になるようにするのだそうだ。
「今日の歌には感情がこもっていた」という褒め言葉が多いこともあって、
それは意外なコメントだった。、
良く考えれば、聴いているこちらの事情とか気分とかに左右されるものだろうし、
あるいは歌っている側の置かれた状況とか境遇とかに勝手に感情移入して、
それが空気の中でうまい具合に調合されて、
なんだか心に響いたり、共感できたりするのかもしれない。
昭和の時代にもそこそこの大人だった人なら、
別の意味でも大きくうなずくことができると思う。
いま、彼が歌うときに、こちらが空っぽの気持ちで聴くことはなかなか難しい。
歌うということに彼が背負っているもの、伝えたいこと、きりひらきたい未来。
そういうものがたくさんありすぎて。
でも若いのだから人生を歌うのはまだ早すぎる。
つらくて切ない想いを重ねるのは聞いているこっちだけでいい。
まだまだ希望を歌わなくては。
美空ひばりが「昭和の歌姫」と呼ばれる所以は、
「川の流れのように」を歌ったことではなくて、
戦後の日本中を元気づけたことにあるのだ。
それが「神様から贈りもの」をされた人が払う代償と思う。